稀めり

さいあくな人格

不定記

 おべんきょうをしようと思ってコメダに来たけれど、シロノワールはひとくち食べればなにもかも解決してしまうような食べ物ではなかったし、さくらんぼはもてあますし、『溺れる人魚たち』はもう読み終わっていたし、筆箱を持ってきたのにシャーペンは忘れたし、あと一時間もしないうちからバイトがあります。今度はちゃんとえんぴつを持って、何時間でもぼんやりBGMだけ聞いて座っていられる時に来ようと思います。それよりも図書館に行く方が先だろうか、先だな、石っぽいつくりの自習室が見た目ほど冷たくなければいい。ずっと小さいころには無限のように思えていた書架は別にぜんぜん無限じゃなくて、あっけないほど冷たくて、ただおどろくべきことがあるとするならこの頭蓋もずうっとちいさいということでした。

 ブログをやりたい。くつを買いたい。歩くためのくつと、おしゃれをして歩くためのくつと、走るためのくつと、歩くためのおしゃれなキャンバス地のスニーカー。足は一対しかありません。

 何かをしたいと思うのは随分ひさしぶりだし140字より長い文章を書くのも家から出るのもなんだって生きるのは久しぶりです。肉体はひどく重い、背負いきれなくなったいつか命になるたねをぽろぽろ取り落としているおんなの肉の重たさはちょうどそういうことなんでしょうかね、知らんけど。とにかく人間の肉体はひどく不便で重たくて冷たくてみにくくてままならぬたましいの墓場であるわけですが、うっかり薬を切らしてわかったけれど思考もまた肉体にとらわれていて、ソクラテスは間違っていました。理性の純粋を信じて己のこころのうちのみを安寧の宮殿とした高潔な安敦王に抗うつ剤を飲ましたらどうなるんだろうと今日はずっと考えていました。わたしが泣くのも平気な顔をするのもぜんぶ肉体が不随意に生み出す液体のようななにかしらにあやつられているからで、たとえばこの肉体が滅んだとしても自由になって天国に行くたましいなんてきっとないんだろうな。完璧な消滅は唯一の救いじゃないですか? 死んだら何も残らない、精神も肉体もぜんぶ原子に崩れて朝もやにとけるんだと安敦は信じていたと聞きますが、そうであればいいと思います。たのしいときは時間がはやくたつし苦しければ時間はのろく流れる、死を前にしたときはその極限で、要するに死後の世界やその類はみな無限に引きのばされた走馬灯なのだという話が今まで聞いたなかでいちばん怖かった話です。うっかり生きながら埋葬されてまっくらな棺のなかで目を覚ますのはほんとうに嫌ですが、永遠に脳髄のなかに閉じこめられるのはさらに怖くて嫌になります。いやそんなに切実には怖くないですし、精神が自由でないのも別にどうでもいいですが(なぜならぼくは21世紀の生まれなので)、死んでもこの牢獄から解放されることがないのはいやです。希望が持てなくないですか? ずうっとちいさい頭蓋にあいた一対のずうっとちいさい穴から覗き見る世界がすべて、半球に切りとられた空のなかの頭蓋におおわれた目玉のおくの膜につつまれた脳髄のなかで膝をかかえている自我ですが、なにかひとつ信じられるものがあるとするなら内燃機関だなと、すっかり冷めて甘ったるいばかりののみものを飲んで思います。シロノワールは上のソフトクリームがあっという間にとけてしまうし食べたあとに水たまりがすこし残るからいやです。あと多分まだサクランボのおいしさをよくわかっていないんだよな、と食べるたんびに思い出します。自分の肉体は信じられないくせに車は自分の延長だと思う倒錯! いちばんわからないのはこんな日記をいんたーねっとに公開しようと思う心づもりで、わたしはまたシロップをかけ忘れていました。何だこれ?

 傲慢な怠惰と緩慢な自傷に付き合ってくれてありがとう。