稀めり

さいあくな人格

とうきょうに行きたい!

(去年書いたものです)

 JRの駅前で迎えを待つのは風が身に染みて惨めだった。もう自動車を動かせるのにね。けれどこんなことももう終わり、次に試験場が開いたら免許をもらいに行って、そうしたらもうわたしはどこへでも行けます。うっかり電柱にぶつかったり、田んぼに突っ込んだりしないかが心配だけど。

 十一月、ここ数日ふんわりとあたたかかったのを忘れたみたいに、ちゃんとそれらしく寒くて、青く晴れた空にあざやかに白い雲がいくすじも浮かんでいました。ロータリーがあって、わたしは名前を知らない大きめの木が植えてあって、雑草がいくらか生えている。信号があって、横断歩道があって、立派な駅だと思います。ホームだって二つもある。さいきん無人駅になったけど。駅前にはむかしあった商店街の亡骸が転がっていて、二階建ての道路にそった住居兼店舗、すっかり色褪せてつぎはぎだらけになってガラスも割れてしまってしんと死んでいる建物の中で、「売物件」の看板だけが鮮やかでした。二階の通りに面したところには室外機が剥き出しにはりついていて、へこんだシャッターは冷たい風にべこべこ鳴っていて、磨りガラスの向こうには粗大ゴミになったのであろう机なんかが雑多に積み上げてあって、もうだれからも手をかけられていないんだろうな、傷んだ瓦と、ゆがんだ骨と、ぼろぼろのタイル。屋号とキャッチコピー(と言うのかな、「花は心のおくりもの」の、「花」と「心」だけが赤で書かれていたからもうほとんど読めなくなっている)、電話番号はまだ繋がるのかな。名前を冠した商店がいくつも、十には届かないくらい、連なって腹を晒しています。花屋さん、時計屋さん、魚屋さん、クリーニング屋さん、酒屋さん、米屋さん。わたしが物心ついた時にはもうこんなふうだった。わたしが故郷のことについて知っているのは、小学生のころから髪を染めている同級生が大声でなにかを笑っていること、その訛りを真似できないこと、団地が町でいちばん高い建物だろうということ、小さな長屋、手すりが錆びてぼろぼろになっているアパート、泣きたいくらい綺麗で広い地平と空、スーパーが潰れて斎場になること、コンビニは潰れて家族葬の斎場になること、持ち主が亡くなったか病気をしたかした田んぼはあっという間に荒れ果てること、田んぼが一枚ずつ潰れて建て売り住宅になること、それくらい。そのなかにわたしはいません。

 空は無限というけれど、あれは嘘だと思います。

 東京には空がないという人たちは、いなかに行けばほんとうの空が、窮まりの無い空が広がっていると思っているんだろうな。それか昔の人は、地球が宇宙の中に浮かんでいると知らなかった頃の人は、空に無限を見ることができたのかしら。ほんの何十キロかの薄い膜、まやかしの青、一色に塗りつぶされた向こうには、手の届かない虚無があるのに?

 小さいころくら寿司だったかな、たぶんくら寿司、遠くの回転寿司屋さんに行くのが楽しみだった。お寿司が苦手だからコーン軍艦とたまごばかり食べていたけど。レーンに乗ってくるくる回るお寿司に、ドーム型の透明な覆いがかかっている。ひとつひとつ全然べつな素知らぬ顔をしてくるくる回っている、物珍しくて楽しかったし人間みたいで嫌だった。

 広い空を見たことがありますか。360°の地平線。180°の天弓。ずいぶん大きいプラネタリウム。田んぼの真ん中の道を延々歩かないと家にはつかない、どこにも行けない、次の曲がり角まで何百メートル。直角に曲がったらまた何百メートル、そんなことを何度も繰り返して、夏の暑い時でも冬の寒い時でも逃げ場はどこにもなくて、足で行ける範囲にはなんにもなくて、そんなふうに頭の上にはすっぽりと空がかぶさっている。遠い山を指して田んぼの中を歩くの、きっと百年前も二百年前もおんなじだったんだろうなあと思うと人間が愛しくなるけれどおんなじくらい死にたくなる、どこにも行けない。スノードームの中の青空。寒風に吹きさらされてだれかが迎えに来てくれるのをずうっと待っています。でももう終わり!

 免許を取ると世界が変わるって先生が言ってた。わたしもそう思う。もうどこにだって行ける。高速にだって乗れる。電車にだって乗れる。あるいは飛行機にも、船にも、わたしはもう19になって、高校も卒業して、免許も取って、きっと行きたいところにはどこにだって行ける。次に春がきたら東京で暮らすんだって。

 とうきょう、東京はすごくいいところでした。これからもずっといいところだと思う。

 高い建物がたくさんあって、人がいっぱいいて、電車とバスが張り巡らされていて、歩いてまちからまちへ行ける、ただ歩くだけでなんでも見られるしなんだって手に入る、都会では人間は空より強いんですね。

 東京には空がないというから、そこに行きたいとずっと思っている、摩天楼でばらばらに踏み砕かれて、なめらかな断面をさらしている空、びりびりに破れた空の下で、ビルが柱になってはじめて人間はしゃんと背を伸ばせるんじゃないかしら、空に圧されることなく。杞憂・極! 世界史Bを履修したくせに杞の国がどこにあるんだか知らないけれど、きっと平野にあったんだと思います。広すぎる空は健康にわるいよ。閉じ込められてどこにもいけない。リングの貞子だったかな、建物の床下に隠させた井戸の中に投げ込まれて死んだ人の話を聞いた。田んぼの真ん中でどこにも行けやしなくって突っ立っているわたしの上にはすっぽり空がかぶさっています。

 築三十年か四十年か、くらいの古ぼけた家の前庭には農具を入れる倉庫がある。倉庫の中ではラジオが鳴っている。道路沿いの、木と木の下に植えられた花を手入れして雑草を抜いているおばあちゃんが、わたしが歩いてきたから顔をあげる。ゴム長靴を履いていて、色がわからないようなもんぺとエプロンをして、まあるくなった腰のうしろに手の甲を添えて、髪はタオルで覆ってある。わたしが頭を下げるとおばあちゃんも下げて、平日の昼間からうろついている若い女、それも髪も染めていないしたらたら歩いている若い女を不審な目で見送っている。近所の話の種になりそうだからあまり散歩に出たくないんだよね。たぶん関係なくうわさにはなっていると思いますが。隣組は家の場所じゃなくて持っている/いた田んぼの場所で組まれているから飛び地が多くて、市の広報誌を配るのにすごく骨が折れます。

 はやく東京に行きたい! 免許はもう取れそうだから。東京にはたくさん楽しいものがあって、うんとたくさん人がいて、ほんとうにしあわせだった。渋谷には平日の午前中から何してるんだかさっぱりわからない人がたくさんいてお祭りみたいでした。だれもわたしを見なかった。わたしもはやく東京に行って人間になりたいな。はやく逃げ出してしまいたい。もう逃げ切ってゴールにはたどり着いたんだから。高校も卒業したし免許だってもう取れる。学生証だって持ってるんです。東京に行きたいな、ビルと人間がたくさんたくさんあって、誰にも見られないところに行きたいです。かぶさる空がびりびりに砕けていて、お天道様も見てないところ。

不定記

 おべんきょうをしようと思ってコメダに来たけれど、シロノワールはひとくち食べればなにもかも解決してしまうような食べ物ではなかったし、さくらんぼはもてあますし、『溺れる人魚たち』はもう読み終わっていたし、筆箱を持ってきたのにシャーペンは忘れたし、あと一時間もしないうちからバイトがあります。今度はちゃんとえんぴつを持って、何時間でもぼんやりBGMだけ聞いて座っていられる時に来ようと思います。それよりも図書館に行く方が先だろうか、先だな、石っぽいつくりの自習室が見た目ほど冷たくなければいい。ずっと小さいころには無限のように思えていた書架は別にぜんぜん無限じゃなくて、あっけないほど冷たくて、ただおどろくべきことがあるとするならこの頭蓋もずうっとちいさいということでした。

 ブログをやりたい。くつを買いたい。歩くためのくつと、おしゃれをして歩くためのくつと、走るためのくつと、歩くためのおしゃれなキャンバス地のスニーカー。足は一対しかありません。

 何かをしたいと思うのは随分ひさしぶりだし140字より長い文章を書くのも家から出るのもなんだって生きるのは久しぶりです。肉体はひどく重い、背負いきれなくなったいつか命になるたねをぽろぽろ取り落としているおんなの肉の重たさはちょうどそういうことなんでしょうかね、知らんけど。とにかく人間の肉体はひどく不便で重たくて冷たくてみにくくてままならぬたましいの墓場であるわけですが、うっかり薬を切らしてわかったけれど思考もまた肉体にとらわれていて、ソクラテスは間違っていました。理性の純粋を信じて己のこころのうちのみを安寧の宮殿とした高潔な安敦王に抗うつ剤を飲ましたらどうなるんだろうと今日はずっと考えていました。わたしが泣くのも平気な顔をするのもぜんぶ肉体が不随意に生み出す液体のようななにかしらにあやつられているからで、たとえばこの肉体が滅んだとしても自由になって天国に行くたましいなんてきっとないんだろうな。完璧な消滅は唯一の救いじゃないですか? 死んだら何も残らない、精神も肉体もぜんぶ原子に崩れて朝もやにとけるんだと安敦は信じていたと聞きますが、そうであればいいと思います。たのしいときは時間がはやくたつし苦しければ時間はのろく流れる、死を前にしたときはその極限で、要するに死後の世界やその類はみな無限に引きのばされた走馬灯なのだという話が今まで聞いたなかでいちばん怖かった話です。うっかり生きながら埋葬されてまっくらな棺のなかで目を覚ますのはほんとうに嫌ですが、永遠に脳髄のなかに閉じこめられるのはさらに怖くて嫌になります。いやそんなに切実には怖くないですし、精神が自由でないのも別にどうでもいいですが(なぜならぼくは21世紀の生まれなので)、死んでもこの牢獄から解放されることがないのはいやです。希望が持てなくないですか? ずうっとちいさい頭蓋にあいた一対のずうっとちいさい穴から覗き見る世界がすべて、半球に切りとられた空のなかの頭蓋におおわれた目玉のおくの膜につつまれた脳髄のなかで膝をかかえている自我ですが、なにかひとつ信じられるものがあるとするなら内燃機関だなと、すっかり冷めて甘ったるいばかりののみものを飲んで思います。シロノワールは上のソフトクリームがあっという間にとけてしまうし食べたあとに水たまりがすこし残るからいやです。あと多分まだサクランボのおいしさをよくわかっていないんだよな、と食べるたんびに思い出します。自分の肉体は信じられないくせに車は自分の延長だと思う倒錯! いちばんわからないのはこんな日記をいんたーねっとに公開しようと思う心づもりで、わたしはまたシロップをかけ忘れていました。何だこれ?

 傲慢な怠惰と緩慢な自傷に付き合ってくれてありがとう。